母になる

らゆる女性は自分の母親になる。それは、彼女たちにとって悲劇的なことだ。そして、どんな男性も彼の母親のようにはならない。それは彼らにとっての悲劇だ。 オスカー・ワイルドは、「真面目が肝心」のなかでそう書いた。でも、私は自分の母親のようにはなっていない。もう少し正確に言えば、私はその時期を過ぎた。まるで辺獄に漂う魂のように、彼女は私の身体に巣食い、ああしろ、こうしろと私を動かそうとする。私が口を開けば、私がそれを初めて耳にしたときと同じ音を伴って、母の言葉が飛び出してくる。料理をするときには、母はわたしの唇で低い口笛を鳴らすし、いつも彼女がそうしていたように、私の人差し指は伸びてレシピをなぞる。たまに夫に対して我慢ならなくなるときは、彼女は私にかなり酷いことを言わせ、そのあとで子供を寝かせるときには、母方の方言による愛情にあふれた旋律が、私の唇から滝のように流れてくる。その旋律に含まれる言葉を私は知っているけれど理解はしておらず、まるで異語を話すかのように次から次へと溢れてきて、祝福と受け継がれてきた愛を私の子供に浴びせかける。

そして彼女は私の顔の筋肉をも操作し、どれほど髪を整えたり切ったりしても、私は日々彼女に似てくる。ブードゥー教の魔術を使って、彼女は私に自分の痛みを伝えてくる。赤ん坊を背負って子守りをし、果てのない眠れぬ夜に疲労困憊するとき、私の筋肉は彼女と同じように感じているので、くたびれ果てた、なじみ深いため息が私の唇から漏れてしまう。「ようやく分かったでしょ」身体のうずきを通して彼女は言う。「母親の身体というものを。この、ほろ苦さを。」

今なら理解できる。身体は自分が達成したことに対する誇りと、高いコストをかけたことに対する後悔の器となり、また、もがき苦しむあなたの母親の魂と、かつて居たはずの子供たちの亡霊たちの住処となる。彼らの細胞の破片は、まるでベッドルームの床に放置された靴下のように、彼女の中に残される。もちろん、母親の魂はもがき苦しむように運命づけられている。そうでなければ、いつでも子供たちが傷つく可能性があるときは、どうなるというのだ?何をしようとも、私たちは子供たちを傷つけることになるのでは?これは、いつでも胸の痛むことだ。時間と共に良くなるなんてことはない。だから母親は、自分の心を鉄で覆うのだ、心が血を流さないように。神は、その負担を面に現すことを禁じている。

それは一晩のうちに起きたことではない。娘の誕生が私の母親を招き、そしてしばらくの間、彼女は私達を垣間見て、時折私の手を導いた。おむつの変え方を、私は知らなかった。彼女は私に手順を理解させた。しかし私はどういうわけか、どうやって自分の腕の中の赤ん坊を愛するのかを知っていた。どうやって抱いて、どうやって授乳するのか、どうやってささやき声であやすのかを知っていた。そうやって3年過ぎまでは穏やかに見守っていたけれど、次の子供が誕生すると、私の母は腕まくりをして事態を引き継ぎ始めた。

今になっては、もともとの私がどれくらい残っているのか、自分でもわからない。またはその人格、私が自分であると認識していた人物は、ただの代理人、いくらでも変わりのいる、理想をなぞったものに過ぎなかったのかもしれない。もしかして、私の中の母親はいつだって自分の中に存在し、どの母親もそうであるように、必要とされるのを待っていたのかもしれない。

身体を乗っ取られると混乱するけれど、次第に慣れてきた。自分の仕事の締め切り中に鼻を吹いたり皿洗いしたりなどを手早く行うとき、または小さな膝小僧が擦りむけて、慰めの言葉をかけるとき、どうやって綿とキスで手当てをするかを私の中の母は教えてくれる。そして何千マイルと離れていても、私の母親の存在を、今この部屋の中に感じる。悲劇的なことは、私が彼女になるのであれば、私の娘は私になることだ。私はこれまで、あまりにも多くの間違いを犯してきたから。残された希望は、娘が私の過ちを許し、甘い言葉や自分を撫でる感触や鉄壁の愛情全てを彼女の血中に深く染み込ませ、繊維質の奥まで浸透させ、そして必要とされるまで、彼女の奥で静かに待ち続けるのを願ってやまない。



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